日本の学生は他国に比べてダメ学生ばかりといえるのだろうか

日本の学生は勉強する気がないのか。

大学生は遊んでばかりいる。そんなイメージをもたれている。

少子化が進む中でとうの昔に大学全入時代に突入した。その弊害として受験勉強せずに大学に入り、入学してからも大して勉強しない生徒があふれてしまっている。

この現状を一見すると日本の大学生はやる気がない。他国の大学生はもっとやる気を持って勉強している。そう感じるのは不思議ではない。

しかし、ちょっと待ってほしい。本当に日本の学生はやる気がなくて、海外の大学生はやる気をもっているのだろうか。

大学全入が日本の学力低下と思われいるかもしれない。アメリカでは日本と比べものにならないくらいの大学があり、お金さえあれば誰でも入学できるようになっている。だが一方でアメリカの学生が日本の学生と同じように全く勉強していないかというとそうではない。彼らはほぼ毎日かなりの時間を勉強に費やしている。

これだけ聞くと、やはり日本の学生は怠慢であると感じるかもしれない。しかし何もアメリカの学生が日本の学生よりも意思をもって勉強しているわけではない。

アメリカの大学は成績の悪い生徒を簡単に退学させる。そして成績付には厳密な点数によってきめられ、出席していればとりあえず単位がもらえるなんてこともない。成績も日本でいう秀、優あたりが平均点でなければならない。

だから彼らは勉強する。日本以上に恐ろしく格差社会で学歴主義、成績主義のアメリカではもうとにかく勉強するしかないのだ。

では日本でもそうすればいいと思うかもしれない。しかし、学校の役員や教授としては無能な他に雇われもしないような先生は簡単にそうすることはできない。収入源である学生がただでさえ少ない中、学生を退学にすることは自分の首を締めることになるからである。給料は減り危うくば解雇なんてこともあり得るかもしれない。

だから彼らは口をそろえて「日本の学生は全く勉強しない。」と言いつつ何も実行しない卑怯な奴らなのである。

今頑張って勉強しているアメリカの学生が日本の大学に来たら彼らは皆勉強するのだろうか。おそらくだらける学生が頻出するにちがいない。

逆に私がアメリカの大学に通っていたときは日本の大学の時の何倍も勉強に打ち込んだ。周りの日本人も例外無く皆そうであった。

また若者たたきの記事か…

こんな記事を読んだ。

なんでもかんでも、即答する人が増えていませんか

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1009/09/news012.html

私のとってこの記事は、また自分の周りを見ずに若者をたたいているだけの記事に見える。

先日も都内のジーンズショップに買い物に行った。気に入ったジーンズを見つけ、店員に自分のサイズに合う物がないか聞いた。店員からは即座に「(在庫は)ありません」との言葉が返ってきただけだった。

この店員はすばらしい。在庫を把握しもったいぶらずに、しっかりした対応をしている。一体何が問題だというのだろうか。即答していることが問題なのだろうか。私もこういった状況に出くわすときは多々あるが、結局在庫がないということをわざわざ待たされて言われる。それならば即答の方がずっとすばらしいではないか。

もしくは、態度の問題を指摘しているのだろうか。「ありません」という文章だけでは感情表現が理解できないが、果たしてこの記事で印象づけられているような冷たい態度をとられたのだろうか。私はそうは思わない。おそらくしっかりした対応で「ありません」と答えたに違いがない。

万が一、冷たい態度をとられたとしてもそれはレアケースではないか。私の体験の限りでは最低でも「ちょっと今、切らしています」ぐらいの対応はされてきた。読者の場合に置き換えて考えてみてほしい。もし洋服店で冷たい態度で「ありません」と対応される場合が多々あるならこの記事が正しい。もしそうでなければやはり希な場合をこの記事で指摘してるに過ぎない。

携帯電話の記事についてもあやしい。

モバイル社会研究所」が平成18年に行った調査によると、中高生の8割以上が携帯電話のメールを返信するまで30分以上かかると「遅いと思う」と回答。「10分以上」も中学生で58.6%、高校生で65.6%もいた。

高齢者と若者では携帯の使用頻度が普及率が全く違うにもかかわらず、この調査を用いて若者は「我慢できない」と主張するのはおかしいと思う。

学生の頃、確かに早く返信しないといけない気持ちに駆られたことはある。しかしそういう場合は友人ではなく、知人レベルの人や目上の方に対してである。私を含め、私の周りは友人から来たメールであり急ぎでなければ次の日に学校で直接返事することも多々あった。

高校の時などは終始メールを気にしている人もいたが大学生になり社会人になるにつれて携帯に依存していた人は私の周りではかなり減った。今の年配者が若かりし頃に携帯があればやっぱり依存してる人はたくさんいできていたと思う。要は年齢の問題だ。

そんな年配者は我慢できているのだろうか。

私は大学生時代にコンビニエンスストアでアルバイトをしていた。コンビニと聞くと若者の利用率が多いように聞こえるが、少子高齢化のせいもあって私の職場では50代以上もおおかった。

この類の客層は総じて待てない人種が非常に多かった。レジに客が2、3並んでいるだけで「一体どれくらい待たせるつもりだ」なんて怒鳴られたこともある。梶原しげる氏は若者との接点が多いかもしれないが自分と違う類の同年代との接点はないのだろう。

人間らしいゆっくりとした生活を目指す「スローライフ」の普及活動に取り組む野口智子(58)は、研修先の社員に「野山で自分の好きな葉を見つけて」と指示した。しかし、社員は即座に上司に聞いたり、グループ討議をしたり。「自分で好きな物も選べないのか」と驚いた。

この記事のタイトルは「なんでもかんでも、即答する人が増えていませんか」
である。それにもかかわらず終わりでは即答できていない人が描かれている。"即座に"という言葉に惑わされてしまいそうだがタイトルと矛盾している。

しかもこのすぐ上の段落で書かれているTwitterと関連してるように見せ、原因をTwitterのせいにしている。じっくり考えてみると何も関係ないことがわかる。

今の若者は大変だと思う。「日本人は曖昧で即決できず言葉を濁す」なんて今まで言われてきたのにいざ返事をしようものならすぐに批判される。それは老人でも十分にあり得ることであるのにいつも若者のせいにされる。遠くにいる若者を見るのも良いけれど、まずは自分の周りを確認してほしい。

ゆとり世代を馬鹿にしている老人こそゆとりそのもの。

私は完全なゆとり世代ではないが、ゆとり教育を少なからず受けてきた世代である。

自分が子供の頃はゆとり教育など意識したこともなくそのまま育ち大人になって「これだからゆとりは」と言われる日々を送っている。

義務教育において誰が教育について決めるかと言えば政治家であり、その政治家を選ぶのは大人たちなのである。

自分が大学生の頃、よく教授はゆとり世代につて語っていた。自分の出身大学は頭がいい大学とはお世辞にもいえず大教室ともなると時には騒がしくなっていたからである。

自分も年齢上は大人といえる。しかしゆとり世代を馬鹿にしている大人は自身の非を棚上げしているのではないだろうか。

大人になって学生時代にもっと勉強しておけばよかったと思ったことがあるひとは結構な数いるのではないだろうか。学生時代というのは勉強やこの一瞬の大切さをわかるのはなかなか難しい。ゆとり教育であっても自分自身で切磋琢磨することもできたかもしれない。しかしそれに気がつくのは非常に難しい。

これはゆとり世代でも非ゆとり世代でもおなじことだ。できるなら勉強をしたくない子供が大半であろう。そんな中で大人たちが選んだ政治家がゆとりを招いたのである。「これだからゆとり世代は」なんて言葉を発している大人たちは自身に非があることをわかっているのだろうか。あなたたちはゆとり以上のゆとりなのである。

真のゆとり大人は「政治家が決めたこと」なんて言うかもしれない。そんなことを口に出してしまえばゆとり大人の証明になるだけだ。「最近の若者は政治に興味がない」とさんざん言っておきながら何十年の間考えもせず同じ党に投票し続けてきた。あんたたちは本当にゆとりだよ。

ゆとりを批判する大人は同年代が見えているのだろか。おそらく見えていない。「ゆとり世代が」なんて考える大人は一応それでも社会的地位がありそれなりの職業に就いているのだから。だから知らないのである。同年代の社会的地位が低い人たちのことを。同年代の社会的地位が低い人たちとの接点なんて大人たちにはない。自分は大学生の時にアルバイトをし、そういう荒れている大人たちをたくさん見てきた。

さっきの教授の話についてもそうである。教授になるくらいだからいい大学出身なのだろう。今のFランクと昔のFランクは違うと思うが、それでも当時のFランクを見たことがあるのだろうか。きっとないだろう。

ゆとり世代は被害者なのだよ。御大人たちの責任であるのに、自分の責任をゆとり世代に押しつけるのはいかがなものかと。

無料になった高速道路を通ってきたけど無理っぽい

ちょうど機会があったので高速道路無料化で試験をやっている道を通ってきました。
感想としてはこれを全国区でやるのは難しい物があるのではないかと思います。

理由としては当然のごとく交通量の増加なんですが、高速内はもちろん高速外も混雑していました。

今回通った高速道路は試験区間でありますので、おそらく全国的に交通量の少ないうちの一つだったのだと思います。実際に無料化前はガラガラでした。

それが、やっぱり人は無料に弱いんですね。今まで見たことないくらいに車が連なっていました。速度としては時速70キロメートルをやっと出せる程度。首都圏と比べると70キロ出ていれば十分と考え得るかもしれませんがあのガラガラだった、法律を犯せばアウトバーン並にスピードを出せること間違いなしのこの田舎の高速で70キロぐらいしか出せないのはかなり混雑している証です。

もう一つ混雑しているのは高速から出た道。最近やたらと道が混んでいると思ったら、どうやら高速道路からの一連のながれでかなり混雑してしまっています。高速から降りた道1キロくらいは大きめの道に整備されててそれでも混でいるのですがそれ以降がもう混雑しまくりで話にならない状態でした。

無料化の交通量と比べると雲泥の差です。こんなかなり交通量の少ない田舎でさえこの混雑なのに無料化全国区は厳しいのではないでしょうか。

いい曲とは何か?初めて聴いた音楽をいい曲と断言することができるのか?

初めてピカソの絵を見たとき何も感動することはなかった。小学校の時に教科書に載っていたそれは全く理解の範疇を超えていた。大学の時に初めてピカソの絵を生で見る機会があった。私はそのときピカソの絵からほかからは感じられない独創性とパワーを感じ、世界から認められている理由を少し理解することができた。

私は音楽が好きだ。

私の周りにはよく一曲フルで聞いてもいないのにすぐいい曲だと断言する人がいる。しかしその人たちは本当にいい曲を見抜いているのだろうか。

「私の周りの人」と書いたが私自身にも思い当たる節がある。CMで少し聴いた曲、テレビで少し使われた曲をいい曲と思いCDを購入する。PCに取り込み数回聞くうちにすぐに飽きてしまう。音楽ソフトの再生回数を確認してみるとそういった経緯で購入した曲は数回しか再生されていないことが多い。

なぜこういった”飽き”がすぐきてしまうのだろうか。私は既存曲との照らし合わせに答えがあると思う。コンサートに行ったとき、知らない曲の演奏はすごく退屈だけれども、一度でも聴いた曲あるものはすごくテンションが上がる。つまり初めて聞いた曲なのにいい曲と思ってしまうのは”過去に聞いたいい曲”とどこかしら似ているからではないだろうか。

そういった似ている曲というのは一回目聞いたときに、すごくすんなり耳に入ってくるのではないだろうか。しかし似ている曲というのはもちろん独創性がない。ゆえにすぐに飽きてしまう。あんなにいい曲と思って購入してもどこか物足りなさを感じてしまう。独創性のなさがそうしているのである。

逆にはじめは全くいい音楽と思っていなかったが、聞いているうちにすごく好きになってしまった曲はないだろうか。それは自分の音楽データベースにないものであるから、初めて聞くときには一種の拒否感を感じているのである。だがそこから得られることは真の意味での新曲ではないだろうか。

真に自分が愛せる曲というのはそういった拒否感のある音楽の中に隠れているのではないか。初聴きでいいと思った物はかならずしもいい曲でない。

最近の学生レポートはコピペばかりというけど

最近の学生は大変だなと思う。

こんな記事読んだ。

学生諸君、コピペリポート見破りソフトあるぞ

ずいぶんと前から話題になっているコピペ論文とコピペ論文発見ソフト。インターネットからコピペされていないかチェックするこのソフトは今の学生には大変苦になるだろう。

そんなことをポロッと口にしてしまえば”大人”な人から「自分が若い頃は…」の常套句ではじまり「コピペで論文とは全くなってない」なんて言われてしまうかもしれない。

しかしちょっと待って欲しい。昔の学生たちはコピペをしていなかったのだろうか。

無論、インターネット、ましてパソコンが発達してない過去においてインターネットからのコピペは不可能かもしれない。だからといって彼らは何も参考にしていなかったわけではないだろう。本や新聞、学術論文を元にせっせことレポートを書いていたに違いない。

そうなった時に、今で言うコピペの作業を全くしていなかったのだろうか。昔の媒体から書き写しをしていたのではないか。もちろんちゃんと頑張って自分なりのレポートを書く人もいたであろう。しかしそんな人は現在の学生でもたくさんいる。楽をして卑怯な手段をつかっていたひともいたはずだ。

昔は手で書いていたからコピペではないと思うかもしれないが、現代においても文章が全く同じでもコピペとの断言は必ずしも出来ない。

むしろ昔の学生は文書のデータベスもなく、コピペ発見ソフトなんてものもなく仮に丸写しをしていたとしてもばれなかったのでないか。

そういった意味ではインターネットだけでなく書籍、論文の文章データと照合される現代の学生は大変である。言い回しを変えてある表現まで発見された日にはもう。

コンビニで何も買わずには出づらくないか?そんなことはない。

先週古い友人と会う機会があった。積もる話を互いに交わしてるうちの中からひょんなことに、「コンビニで何も買わずには店を出づらくないか」という話題になった。

友人いわく「何も買わずに出て行くのはむしろ歓迎」といい私の意見に反対した。

友人は学生時代長期でコンビニバイト経験があり夕方の時間帯と深夜の時間帯にシフトが入ることが多かったそうだ。

理由はこうだ。
コンビニでバイトというとただ単にレジにたってひたすら客をさばくイメージがあるかもしれないがそれは大間違い。常に与えられたタスクをこなさなければならず、勤務時間内に与えられた業務が終わらないこともしばしば。レジの外で忙しくしてるときにレジにこられたら正直なところ迷惑で、時には苛立ちさえ覚えてしまうという。

逆にトイレを借りても立ち読みだけでもレジに来なければ自分の作業に集中できる。レジに来る客よりもむしろ、時間給で雇われているバイトにとってはいいお客なのかもしれない。もちろんお客様が商品を買われることによって自らの給与があることは理解しているらしいが、現実の心の中はそのようなものだ。

買っていただいてうれしいときもある。店側から「この商品を何個以上売れ」とアルバイトにもかかわらず、ノルマを課されている場合である。特にこういった商品はセール中の品やファーストフーズ系に多いのだが、たくさん発注もしくは調理したにもかかわらず大量廃棄になってしまう場合である。さすがに食べ物を大量に捨てるのは心が痛むらしい。

何も買わない客が”いい客”であることは分かったが、言わせて見れば”買う客”はいやな客ともいえる。特に”俺は買ってやってるんだぞ!的な心構えで来られるお客さんである。バイトからしたら帰ってくれたほうがうれしいのにそんなこと思われても困るしむしろ苛立ちを隠せない。

上記は私の友人の一見解であるが、彼曰くほとんどのコンビニバイトはそう思っているだろと話していた。もちろん社員や店長、オーナーになればまた話は変わってくるとは思うがバイトに関しては上記のとおりだそうだ。

つまりは何も買いたくなければ立ち読みしようがトイレを使おうが「どうぞ帰ってください、僕アルバイトォーなのでどうでもいいです。」ということである。